自分だけの子守唄
2012/08/11 Sat 09:56
人にはそれぞれ自分だけの子守唄というものを持っているものです。
おっかさんが泣き叫ぶ赤子をおんぶしながら即興で作ったデタラメな唄。
今、大人になって改めてその時の子守唄を口ずさんでみれば、あまりにも奇怪なメロディーと支離滅裂な歌詞におもわず吹き出してしまいます。
そんな自分だけの子守唄。
僕の場合、おっかさんの子守唄ではなく、近所のお姉ちゃんの子守唄でした。
そのお姉ちゃんは僕が幼稚園の頃に長屋に引っ越してきました。
そして僕が小学校に入学してすぐに消えました。
記憶を辿れば、恐らく二十代後半ではなかったかと思われます。
名前は確か「藤ちゃん」と呼ばれていました。
フルネームはわかりません。
男と暮らしていました。
暗い顔したおっさんが、いつも昼間っから酒を飲んでいました。
長屋はほとんどが共働きだった為、昼間は大人がいませんでした。
お姉ちゃんは夜の仕事をしていた為、昼間は長屋にいます。
だからお姉ちゃんは、大人達が帰って来るまでの間、僕とあずちゃんと勇気君の面倒を見てくれていたのでした。
お姉ちゃんは、僕達が保育園から帰って来る頃にノソノソと起き始めます。
長屋の路地で遊んでいる僕達の所にやって来ては、寝ぼけ眼でプカプカと煙草を吹かしながら、遊んでいる僕達をぼんやりと眺めています。
そんなお姉ちゃんにあずちゃんが甘えます。
三歳のあずちゃんの家には母ちゃんがいませんでした。
あずちゃんが二歳の時、あずちゃんの母ちゃんは他所の男とどこかに逃げて行きました。
だからあずちゃんは、工場で働く父ちゃんと二人で暮らしていました。
あずちゃんはすぐにお姉ちゃんに抱っこをねだりました。
お姉ちゃんは煙草を路地のドブにポイッと捨てると、そんなあずちゃんに「おいで」と両手を広げました。
お姉ちゃんに抱っこされたあずちゃんは、恥ずかしそうに下唇を噛みながら、嬉しそうにニヤニヤと笑います。
お姉ちゃんはやたらあずちゃんばかりを可愛がっていました。
僕も勇気君もお姉ちゃんに抱っこしてもらいたかったのですが、しかし、僕達はあずちゃんには母ちゃんがいない事を知っているため、あずちゃんにお姉ちゃんを譲っていたのでした。
すると、長屋の奥から「ふざけんな!」という怒鳴り声が聞こえてきました。
その怒鳴り声はお姉ちゃんの家からでした。
おっさんがベロベロに酔っぱらって怒鳴り散らしているのです。
おっさんの怒鳴り声が長屋に響き渡ると、あずちゃんを抱いたお姉ちゃんは子守唄を唄い始めます。
それはまるでおっさんの怒鳴り声を子守唄で掻き消そうとしているようでした。
『♪夜の〜新宿〜う〜ら通りぃ〜♪肩を寄せ合う通り雨ぇ〜♪』
八代亜紀の「なみだ恋」です。
それが、お姉ちゃんが僕達に唄ってくれた子守唄でした。
お姉ちゃんは歌詞を知らないのか、このフレーズを延々と繰り返すだけで、それ以上は唄った事がありませんでした。
しばらくすると、お姉ちゃんの家から何かが激しく割れる音が聞こえてきました。
その音に驚いたあずちゃんが泣き出し、僕達と勇気君は慌ててお姉ちゃんの背後に身を隠しました。
「大丈夫。大丈夫。キチガイが淋しい淋しいって泣いてるんだよ」
お姉ちゃんは、脅える僕達にそう優しく微笑みながら、あずちゃんの背中をポンポンと叩きます。
「あのおじちゃんキチガイなの?」
僕はお姉ちゃんを見上げながら小声で聞きます。
この長屋の子供達というのは、幼い頃から、キチガイ、コジキ、ポン中、インバイといった反社会的用語を聞き慣れており、それらがどういう者達なのかもよく知っております。
「うん。おっちゃんね、悲しくて悲しくてキチガイになっちゃったの」
お姉ちゃんはそう笑いながらも、同じフレーズばかりの子守唄を唄い続けます。
「おじちゃん、どうして悲しいの?」
今度は勇気君がお姉ちゃんの太ももにしがみつきながら聞きました。
「どうしてだろうねぇ……多分、お金がなくなったからじゃないかなぁ……」
そう呟くお姉ちゃんに、更に勇気君は聞きました。
「どうしてお金がなくなったの?」
「……おっちゃんね、信用してる人に騙されちゃったんだ。何もかも盗まれちゃったの。だから悲しくて、ああやって毎日泣いてんの……」
お姉ちゃんはそう呟くと、再び子守唄を歌い始めました。
そんなお姉ちゃんの顔が凄く淋しそうだったため、僕も勇気君もそれ以上は聞く事ができませんでした。
『♪夜の〜新宿〜う〜ら通りぃ〜♪肩を寄せ合う通り雨ぇ〜♪』
おっちゃんの怒鳴り声とガラスの割れる音を背景に、お姉ちゃんはひたすらその子守唄を歌い続けました。
共同便所から漂う糞尿の匂いと長屋のすぐ裏を走る電車の音。
貧困長屋には不釣合いなキャデラックが歩道に乗り上げ長屋の入口で黒光りしてます。
暴走族の落書きだらけの塀には青いビニールシートのテントが並び、昼間っから酔っぱらった乞食が立ち小便しております。
シンナーのビニール袋が風に舞い、それを野良の子猫が嬉しそうに追い掛けてます。
そんな人生のゴミ捨て場のような長屋に、お姉ちゃんの子守唄は淋しく響いておりました。
八代亜紀の「なみだ恋」。
これが僕の、自分だけの子守唄です。
今でも「なみだ恋」を聞くと、あの糞尿漂う糞長屋を思い出します。
その後のお姉ちゃんがどうなったかは知りません。
そもそも、あのお姉ちゃんがナニモノだったかも知らないのですから、彼女のその後の消息などわかるわけございません。
ただ、先日、久しぶりに実家に帰った時、お袋にお姉ちゃんの事を尋ねてみると、お袋はボケかかっているにも関わらず、「ああ、藤ちゃんね、懐かしいねぇ」と、お姉ちゃんの事を覚えていました。
藤ちゃん。
あのお姉ちゃんとあのいつも酔っぱらっていたおっさんは親子だったらしいです。
家を取られ、女房に逃げられ、借金だらけの身でこの長屋に落ちてきたらしいです。
だからお姉ちゃんは同じ境遇のあずちゃんばかりを可愛がっていたのでしょう。
そんなお姉ちゃんは、スナックで働きながらおっさんの面倒を見ていたらしいです。
しかし、おっさんは毎日毎日酔っぱらって荒れていました。
そして、酔って線路をフラフラ歩いている所を電車に轢かれて死んでしまったらしいです。
確かに、僕が小学生に通い始めた頃、すぐ近くの踏切で酔っぱらった乞食が電車に轢かれた事がありました。
けたたましい救急車のサイレンをなんとなく覚えています。
あの時の電車に轢き殺された乞食が、お姉ちゃんのお父さんだったとは知りませんでした。
それに、あれは事故ではなく自殺だったと・・・・
夜の新宿裏通り。肩を寄せ合う通り雨。
あの時のあの唄は、僕達に唄ってくれていた子守唄ではなく、お姉ちゃんが自分自身に唄っていた子守唄なのではないだろうかと、今、雨の新宿を窓から見ながら、ふとそう思いました。
お姉ちゃんの顔は覚えてないけど、あの歌声は今でも覚えてます。
お姉ちゃんが唄ってくれた「なみだ恋」は、今でも僕の子守唄です。
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